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「ごめん! エミリーが今日は熱を出したから……」
何度目だろう。
その一文を目にした瞬間、私は手の中の便箋から、そっと視線を外した。
ほんの少し前まで、私は鏡の前に立っていた。 午後の外出に合わせて選んだ淡い青灰色のドレスの裾を、最後にひと撫でして、手袋の片方だけをはめ終えたところだった。 帽子には白い小花の飾りを控えめにつけてもらっている。 鏡台の前には真珠の耳飾りが二つ、行儀よく並べられたままだった。 本来なら、もう間もなく婚約者が迎えに来るはずだった。 リチャード・グランヴィル。 私――イブリン・アシュフォードの婚約者であり、家同士の約束のもとに結ばれた相手だ。 幼い頃からの付き合いではないけれど、正式に婚約が整ってからは、互いの家を行き来する機会も増え、劇場や茶会へも何度か連れ立って出かけてきた。 少なくとも、そういう形の穏やかな未来を、私は思い描いていた。 けれど今、私の手の中にあるのは、その約束をまたひっくり返す短い手紙だった。 便箋には続けて、急いで書きつけたような文字が並んでいる。『様子が落ち着くまで、今日はそばにいてやりたい。埋め合わせは必ずする』
その最後まで読んでから、私はようやく小さく息をついた。
騒がしい落胆ではない。 慣れてしまった失望が、静かに肩へ降りてくるような、そんなため息だった。「お嬢様……」
控えめな声で呼びかけたのは侍女のメアリだった。彼女は扉のそばで、気づかわしげにこちらを見ている。
「今日は、いかがなさいますか」
どうするも何もない。
そう思いながらも、私はすぐには答えなかった。 さっきまでの自分の姿が、妙に細かく頭に浮かぶ。 鏡の前で髪の流れを整えたこと。メアリが裾を直してくれたこと。紅茶に合わせて出すはずだった焼き菓子を、料理人が朝から用意していたこと。 そんな、ほんのささやかな支度の一つひとつが、いま急に宙ぶらりんになってしまったようで、何とも言えない。 約束を取りやめる手紙を受け取るたび、私はいつも同じことを思う。 外出そのものが駄目になったことより、そのために整えていた時間ごと、ぽっかり形を失ってしまうことのほうが、ずっとむなしいのだと。「……予定は取りやめね」
そう言って、私は手紙を丁寧に畳んだ。
紙を雑に扱う気にはなれなかった。 腹立ちまぎれに握りつぶすほど若くもないし、涙で滲ませるほど夢見がちでもない。 ただ、その紙きれ一枚のために、午後の見通しがすっかり変わってしまうことだけが、じわじわと気に障った。「お返事は、いつものように?」
「ええ。お気遣いなく、お大事に、と」メアリは少しだけためらってから、そっと頷いた。
その“いつものように”という言葉が、私自身の耳にも妙に残った。 いつものように。 そう、いつものように、なのだ。――エミリーが体調を崩した。
――エミリーが気分を悪くした。 ――エミリーが不安がっている。 ――エミリーがひとりでは心細いと言った。そうして、そのたびにリチャードは私との約束を後へ回す。
最初の頃は、私も仕方ないと思おうとした。 エミリーは彼の従妹で、幼い頃から身近にいた相手だという。しかも身体が弱く、時折寝込むこともあると聞かされれば、気にかけるなというほうが無理なのだろう、と。 家族に近い相手を大事にすること自体は、責めるようなことではない。 けれど、何度も何度も繰り返されれば話は別だった。今日だけではない。
先月も、その前も、その前も。 劇場の約束。茶会への同行。我が家での夕食。 どれもこれも、直前になって取りやめになった。 そのたびに私は笑って見せた。仕方ありませんわ、と。 エミリー様がお加減を悪くなさったのなら、と。どうぞそちらを優先なさってくださいませ、と。 そう言うほうが上品だったし、波風も立たなかったからだ。 けれど、言葉にしてしまえばしまうほど、自分の中で何かが少しずつ擦り減っていくようでもあった。 本当に大切な約束なら、そう何度も後へずらしたりしない。 埋め合わせ、などという便利な言葉を、こんなに気安く繰り返したりもしない。メアリが静かに部屋を出ていき、扉が閉まる。
広くもない自室が、そのとき妙に静まり返って感じられた。 窓の外では午後の日差しが庭に落ちていて、薔薇の枝先が風に揺れている。 こんなに穏やかな日なのに、気持ちだけが上手くそこに溶け込めなかった。 私は鏡の前へ戻った。 つい先ほどまで楽しみにしていたはずの外出着が、急によそよそしく見える。 帽子も、手袋も、耳飾りも、すべてが“中断された午後”の印のようだった。 耳飾りの片方を手に取って、また置く。 外すほどでもない。けれど、このままでいるのも何だか間が抜けている。 そんなふうに迷う自分が、少し嫌だった。 たかが一度の取りやめなら、ここまで気にならなかっただろう。 私はそこまで狭量ではないつもりだ。婚約者の身内が具合を悪くしたと聞かされて、不満を顔に出すほど幼くもない。 けれど、同じことが重なれば、話は変わる。 私が腹立たしく思っているのは、エミリーが病弱だということではない。 彼女に思いやりを向けることでもない。 では何なのか。 その答えは、もうとっくに分かっていた。 私との約束は、後に回してよいものだと、リチャードがあまりにも疑いなく思っていることだ。 私は“理解してくれる側”に置かれている。 待たされても、譲っても、にこやかに受け流す側に。 それが一度や二度ならまだしも、こう何度も続くと、さすがに胸の内が静かではいられない。 自分が雑に扱われている、などと大仰に言いたいわけではない。 ただ、軽く見られているのだな、と気づいてしまうのだ。 しかもおそらく、本人にその自覚はない。 そのことが、いちばん腹立たしかった。夫人はすぐに表情を整えた。「ただ、イブリンさんのように賢く、落ち着いたお嬢さんなら、今回のことも少しお時間を置けば、違った見え方になるのではないかと思いましたの」 その瞬間、自分の中で何かがすうっと冷えた。 賢い。落ち着いている。 違った見え方。 言い換えれば、今は感情的になっているだけで、そのうちこちらに合わせた考え方へ戻るだろう、と言っているのと同じだった。 私は顔を上げた。「違った見え方、とは?」 奥方は一拍おいてから答えた。「たとえば、婚約というものは、ふたりだけのものではありませんでしょう。家同士のお付き合いもありますし、身内に少々厄介な事情がある時には、互いに少しずつ譲り合っていくことも必要かと」 私はそれを聞きながら、唇の内側をそっと噛んだ。 厄介な事情。少々。譲り合い。 やっぱり全部、向こうに都合のよい言い換えだった。「譲り合い、ですか」 気づけば、そう口にしていた。「ええ」 「私ばかりが譲っていたように思いますけれど」 応接間が静かになった。 言い方はきつくなかったはずだ。 でも、その言葉は思っていた以上にはっきり響いたらしい。 夫人は一瞬だけ目を瞬かせ、それからかすかな笑みを戻した。「そう感じさせてしまったことは、残念に思いますわ」 その返しに、私は少しだけ目を伏せた。 ――感じさせてしまった。 そこでもまだ、事実ではなく受け取り方の話にされるのだ。「リチャードにも、今後はもっと気をつけるよう、私どもからもよく申します。ですから、どうか今回のことだけで」 「今回のことだけではございません」 自分でも驚くほど、きっぱり言えていた。
翌日の午前、お父様から「先方の奥方がいらっしゃる」と聞かされた時、私は思っていたより平気だった。 驚かなかった、というほうが近いかもしれない。 あの返書を読んだあとでは、向こうがこのまま引き下がるとは考えにくかったし、むしろ誰かが直接こちらへ来るほうが自然に思えた。 花で済ませようとして、書面でもまだ「少し時間を置けば」と言ってくるような人たちだ。 顔を合わせれば丸く収まると、きっとまだ思っているのだろう。 私は居間の窓辺で、手にしていた本を閉じた。 読んでいたつもりだったけれど、何が書いてあったのかはほとんど頭に入っていない。 外では薄曇りの空の下、庭師が剪定した枝をまとめていた。鋏の小さな音が、とぎれとぎれに聞こえてくる。「会ってみる?」 お母様がそうおっしゃったので、私は少しだけ考えた。 考えるまでもないことのようでもあったし、ここで逃げるのも違う気がした。「ええ」 私は答えた。「お会いします。けれど、二人きりでは嫌ですわ」 「もちろんよ」 お母様はすぐにそう言ってくださった。 その一言だけで、胸の内のこわばりが少しやわらぐ。 前なら、婚約者の母君がいらっしゃるのなら、無礼のないように、穏やかに、とまずそちらを考えただろう。 けれど今は違う。私はもう、向こうに都合のよい聞き分けのよさを見せるために座るのではないのだ。 お母様のほかに、キャサリン姉様も同席することになった。「あなた一人に受け答えをさせる気はないわ」 そう言いながら、姉様はこともなげに手袋の指先を整えていた。 その落ち着きが、ありがたい。 約束の刻限が近づくにつれ、不思議と気持ちは静まっていった。 怖くないわけではない。 ただ、昨日までの
私は膝の上に置いた手をそっと重ねた。 腹が立っているはずなのに、どこか冷めてもいた。 ここまで分かりやすく書かれると、むしろ迷う余地がなくなる。「見事ですこと」 お母様が言った。「こちらの娘が繰り返しないがしろにされたことは“若さ”で済ませて、まだ譲れとおっしゃるのね」 「しかも、理知的で思慮深いから我慢できるだろう、と」 ハロルド兄様の声には、もう隠そうともしていない苛立ちがあった。「結局そこなんだよな」 ジョン兄様が壁にもたれたまま言う。「イブリンなら飲み込むだろう、って最初から思ってる」 私はようやく口を開いた。「……先方は、本当に婚約解消になるとは思っていないのですね」 自分でも驚くほど、平板な声だった。 お父様が私を見る。「そうだろうな。少し宥めれば戻ると考えている」 「花でも届ければ済む、と」 私がそう言うと、キャサリン姉様が小さく頷いた。「ええ。そして、時間を置けばこちらの気持ちもなかったことにできる、と思っているのよ」 その言葉は、私の胸にすとんと落ちた。 まさしくその通りだった。 リチャード本人がそう思っているだけなら、まだ若さや鈍さのせいとも言えたかもしれない。 けれど、この返書を読む限り、それは家ぐるみの考えなのだ。 あの人が何も分かっていないのは、ひとりだけの浅さではない。「“従妹の身の上についても、いささか気の毒な事情”」 お母様がその箇所を繰り返す。「ずいぶん都合のいい書き方ですこと。詳しくは言わないけれど、こちらは察して大目に見なさい、というわけね」 「しかも、その事情をリチャード自身にどこまで知らせているかも怪しい」 お父様が便箋をたた
先方からの返書が届いたのは、その日の午後だった。 昼食を終えて、私は居間でキャサリン姉様と向かい合って座っていた。 姉様は刺繍枠を手にしていたけれど、針を動かすより私の顔を見ている時間のほうが長かったと思う。 私のほうも、本を開いてはいたものの、同じ行を何度も目で追っているばかりだった。 執事が入ってきた時、その表情を見ただけで分かった。「お父様からですか」 「はい、お嬢様。皆様、書斎へお集まりくださいとのことです」 姉様と私は目を合わせた。どちらからともなく立ち上がる。 廊下を歩きながら、私は妙に落ち着いていた。 返事が来ることは分かっていたし、その中身が素直な詫びだけで済まないことも、もう何となく分かっていたからだ。 書斎へ入ると、お父様は机の向こうではなく、窓際の長椅子の近くに立っていた。 お母様もいらして、ハロルド兄様とジョン兄様もすでに揃っている。皆の顔を見る限り、まだ手紙は読まれていないらしかった。 「来たよ」 お父様がそう言って、封筒を軽く持ち上げる。 上質な紙に、整った筆跡。 いかにも、失礼のない文面であろうことが見て取れた。「読んでしまいましょう、お父様」 キャサリン姉様が言うと、お父様は頷き、封を切った。 紙のこすれる音だけが、やけにはっきり聞こえた。 お父様はまず一度、黙って目を通した。 そのあと、口元だけがわずかに固くなる。「読んでくださいます?」 お母様が静かに促すと、お父様は便箋を持ち直した。「“先日は、若い者どうしの行き違いが思わぬかたちでご心痛をおかけしたこと、残念に存じます”」 私はそこで、早くも気持ちが冷えた。 ――ご心痛。 なるほど、そう来るのかと思う。約束
翌朝、私は思っていたほど眠れていなかった。 夜のあいだに何度か目が覚めて、そのたびに、もう婚約は終わるのだと確かめるみたいに天井を見つめた。 泣きはしなかったし、取り乱しもしなかったけれど、気持ちがすっかり軽くなったわけでもない。 ただ、不思議と迷いはなかった。 朝の支度を済ませて食堂へ下りると、お母様はいつも通り落ち着いていらしたし、お父様も普段と変わらぬ顔で新聞に目を通していた。 けれど、食卓の空気には昨夜の続きがちゃんと残っていた。「よく眠れた?」 お母様に聞かれて、私は少し考えてから答えた。「……それなりに」 「そう」 無理に慰めるようなことを言われないのが、ありがたかった。 朝食のあと、お父様はナプキンを置いて私を見た。「先方への書状は、もう出した」 私は背筋を伸ばした。「ありがとうございます」 「こちらの意思ははっきり書いた。これまでの度重なる不誠実な対応についても触れてある。曖昧に話を濁されてはかなわんからな」 その言葉を聞いた時、胸の中が少しだけ静かになった。 昨夜の決意が、もう家の中だけのものではなくなったのだと思えたからだ。「返事はすぐ来るかしら」 キャサリン姉様がバタつかせずに尋ねると、お父様は肩をすくめた。「どうかな。先方としては、そう簡単に飲み込みたくない話だろう」 たしかにそうだろう。 事業のつながりもあれば、世間体もある。 それに、何よりこれは向こうから望んできたご縁だった。 都合のいい婚約者として私を見ていたのだとしたら、なおさら手放したくはないはずだ。 そんなことを考えていた時だった。 食堂の外で、使用人の足音が止まる。 少しして、執事
(リチャード視点) エミリーの部屋を出た時、僕は思っていた以上に疲れていた。 イブリンの家では怒鳴られたわけではない。 怒鳴られたわけではない。 殴り合いになったわけでもない。 けれど、あの家の応接間で向けられた空気は、そういう分かりやすい荒れ方より、ずっと堪えた。 ハロルドの冷えた顔も、ジョンの露骨に不機嫌そうな目も、まだ頭の隅に残っている。 それより何より、イブリンの声が離れなかった。 ――婚約者様、それ、私に何の関係がございますの? あんなふうに言われるとは思わなかった。 屋敷へ入ると、母がまだ起きていた。 いつもの居間で、夜用の薄いショールを肩に掛け、書き物をしていたらしい。僕の顔を見るなり、羽根ペンを置く。「お帰りなさい。ずいぶん遅かったのね」 「イブリンのところへ寄ってきたんだ」 僕がそう言うと、母はすぐに事情を察したようだった。「ちゃんと説明したのね。それで?」 それで、と聞かれても、答えに少し詰まる。 ちゃんと説明したつもりだった。 エミリーが熱を出したことも、心細がっていたことも、その場を外せなかった理由も。こちらとしては誠意を見せたつもりだったのだ。 なのに、うまくいかなかった。「……思ったより、気を悪くしていたみたいだ」 「まあ」 母は驚いたというより、少し面倒そうな顔をした。「イブリン嬢が?」 「兄たちも出てきて、ひどく責められたよ。まるで僕がよほどのことをしたみたいに」 母はショールの端を整えながら、ふう、と息をついた。「今日はたまたま虫の居所が悪かったのかもしれないわね。約束が駄目になったのですもの、不機嫌にもなるでしょう」 その言い方に、僕は少しだけ気







